銭鏐の在位中、銭塘江の潮(海嘯)は深刻な災害で、沿岸部の畑や民家はしばしば破壊され、城内でも船を漕いで出かけようとするほど冠水していた。
潮を遮るため、銭鏐は堤防の建設を命じた。堤防は台形で、竹と木を杭にして、真ん中を大きな石で固めて、それから組物でつないで、理論的にはとても頑丈な堤防。しかし、建設時に荒い波がたちまち建設したばかりの部分を押し流した。
人々は、死んだ伍子胥(春秋時代の呉の政治家)の怨念が潮神となり、生前の屈辱と怒りをこの世に向けて晴らしたのではないかと推測した。銭鏐はそれを知って、大臣と相談して呉山に祭壇を建てて伍子胥に祭祀・祈りを捧げ、しかし堤防は再び破壊された。「ただの潮神は何が怖いのか。1万人の弓兵を集めて、8月18日に銭塘江の岸で待っていてくれ!」
伝説によると、旧暦8月18日は潮神の誕生日で、この日の波は最も荒く、しかも潮神は白い馬に乗って波の上を走る。
8月18日になると、銭塘江のほとりには早くも高い展望台が建てられ、夜が明けたばかりの頃には銭鏐はすでに潮を待っている。しかし部隊は宝石山の狭い道に阻まれ、時間通りに到着できず、続々と到着するしかなかった。
銭鏐はすぐに馬に乗って宝石山に駆けつけ、山頂で観察していると、山の南に亀裂があることに気づき、彼は座って岩を強く踏んで、山が一気に分かれ、部隊は無事に銭塘江に到着した。それ以来、ここは「踏開嶺」と呼ばれ、銭鏐の巨大な足跡は今日に至るまで岩壁に深くはまっている。
すぐに銭鏐は銭塘江に戻って、部隊と一緒に波の状況を見つめていた。沿岸の人々は銭鏐が潮神を討つと聞いて応援に駆けつけ、数十里の川岸は人でいっぱいだ。
この時、空は暗くなり、風が激しくなり、部隊の旗はほとんど折り、銭鏐は「この野郎、畑を破壊して、人を害して、すぐに帰れ!」と叱った。庶民や弓兵たちはこの話を聞いて歓呼し、人々の声は雷のようだ。
突然、遠くの川に白い線のような波が現れ、ますます速く荒れ狂うようになり、みんなはすぐに緊張した。「落ち着け!矢を用意しろ!」彼はシタンで作った良弓を手に取り、波に狙っていた。
波はすでに空を遮って展望台に向かって押し寄せてき、銭鏐は「攻撃!」と怒鳴り、すぐに矢を放った。たちまち、1万本の矢が大波に命中し、人々は力を尽くして声援を送り、間もなく3万本の矢を放った。もともと勢いのあった潮は方向を変えて西陵(今の濱江区の西興)に向かったが、その後3日も襲来しなかった。人々はこの時間を利用して、急いで工事をして、ついに堤防を築きた。
また、銭鏐は竹籠に巨石を詰めて土台を作るよう命じ、城門を建てて竹車門と名付けたが、後に候潮門と改称した。今でも候潮門は杭州の地名である。
それ以来、杭州では銭塘江の潮による被害は二度となかった。海水も市内の水路に逆流しなくなり、アルカリ化された土壌も耕作に適してきた。銭鏐を記念するために、人々は当時銭鏐がいた堤防を銭王堤と名付け、矢で潮を射る場所を鉄幢浦と呼んだ。