杭州教育史の跡:厳州中学校の事務棟


中英西法日韩【02.05-02.09】杭州教育遗存:严州中学办公楼_副本.png


厳州中学校の事務棟は建徳市総府社区府西路に位置する。歴史は今から800年前にさかのぼることができ、当時は厳州府の中で最も古い書院だった。


北宋文学者の范仲淹は睦州知府に就任して間もなく、給料を寄付して龍山書院を創設し、これによって厳州教育史の新しい一章を開いた。南宋の乾道六年(1170年)、張敬夫が麗沢書院を創建し、有名な教育家の朱熹を招いて講義を行った。


清の康熙年間になると、当時の知府 呉昌祚が文淵書院を創建した。嘉慶年間の時、知府の張丙震は文淵書院を双峰書院と改名し、これが厳州中学校の前身だった。


光緒二十七年(1901年)、厳州知府劉宗標は王靭(双峰書院の院長)を招待し、双峰書院を六睦学堂に改めることを検討し、また、王靭を学堂最高管理者に就任させた。そのため、劉宗標は石碑に『変更六睦学堂記』を編纂した。六睦学堂は建徳市現代教育の始まり、厳州中学校の誕生を示した。


光緒二十八年(1902年)、清政府は『欽定学堂定款』を公布し、学堂を大、中、小の3つの等級に分け、都や省都に高等学堂(大学堂)を設け、郡に中学堂を設け、州や県に大学堂を設けることを規定した。翌年、厳州知府の黄書霖は六睦学堂を厳郡中学堂と改め、『厳郡中学堂記』石碑を設置した。


現在、残されている厳州中学校の建物は2か所ある。事務棟は1961年に建てられ、敷地面積は1255平方メートルで、3階建てで、屋根はスロープ式で、「人」字の形をした梁構造を採用した。陳列館は2階建てで、敷地面積はより小さく、屋根と梁の様式は事務棟と同じである。


厳州中学校は建徳市教育史に重要な意義があり、建徳市教育事業の発展・研究に貴重な実物資料を提供した。