宋は中国医学の発展の最盛期であった


中英西日【07.10-07.14】宋代是中国医学发展的极盛时期_副本.jpg


医学は古代の中国から「仁政」として扱われてき、その中で、宋は中国の医学発展の極めて重要な時代であった。印刷術は医学書の大量出版を後押しし、健康と衛生に関する常識は公式に普及した国民教育で、貧困層に無料治療を提供する安済坊、施薬局などの医療福祉機関も設立された。


古代中国では道教は医学と密接に関連していたが、宋になると道教を国教とし、歴代の皇帝は医術や薬の編纂をあがめた。例えば、宋太祖が在位していた時に編んだ『開宝本草』、宋太祖が在位していた時に編んだ『嘉祐本草』。


公式に関連書籍を編集するほか、専門の医書編集出版機関である校正医書局を設立された。北宋時代、校正医書局は5回にわたって大規模な医学書の校正を行った。宋仁宗が在位していた時、民間では呪術医が盛んであったため、病気になると正規の治療をしないことが多かった。一方、公式に編纂された医学書は紙幅が小さいだけでなく、内容が洗練されており、庶民に分かりやすいため、強力な普及を経て、遅れた呪術医が正統医学に全面的に代替された。


当時、杭州に居住していた朱肱氏は『重校証活人書』を著し、人体の経絡、脈穴を中心に、そしてチフスの症状を綿密に分析した。朝廷はこの本を大切にしており、全国で大量出版が行われ、大きな影響を与え、今も再出版されている。


著名な文学者である蘇軾が杭州に在任中に杭州で深刻な疫病が発生した。幸いなことに、彼が黄州在任中に記録した処方箋「聖散子方」が大きな役割を果たし、また、蘇軾が設立した安楽坊は多くの人々を治療した。宋の「方艙医院(臨時医療施設)」とも言える。その後、蘇軾が「北宋医学の王」と呼ばれる龐安時氏に処方箋を与え、龐安時氏は『傷寒総病論』に記録した。蘇軾の貢献を記念するために、人々は安楽坊のそばの2つの橋を「衆安橋」「衆楽橋」と改名した。この2つの地名は今でも杭州市に存在している。


南宋になると、朝廷は翰林医官局を専門に設立し、医薬と衛生の政令を司った。また太医局を設立し、全国の医療事業を担当し、教授と各科医師を内蔵し、人数は100人を超え、大量の処方箋を統一的に編纂して全国で普及·応用した。医薬知識を教える専門学校の「医学院」も登場し、人材の育成と薬の開発に重点を置いていた。病気になった貧しい人には、「恵民薬局」を設置して対応した。


特に南宋の海外貿易はかなり発達し、外国の薬物が大量に流入し、医学の発展をさらに推進し、南宋の医薬と医学分野はこれまでよりも完備しており、多くの医学者や著作が出ているた。例えば、杭州に現存する地名「嵇接骨橋」は、当時知られていた骨科医の嵇清氏にちなんだものだという。外科と婦人科の専門家でもある陳自明氏は、『婦人大全良方』を編纂し、これは中国で現在現存する最も早い産婦人科学の漢方医専門書で、中国医学の宝庫のきらきら光る真珠と呼ばれる。


中国の法医学が正式に形成された時期も南宋。宋孝宗の時代、傑出した法医学者である宋慈氏は「法医鑑定学」を創始し、彼が編纂した『洗冤集録』の内容の多くは現代医学と一致し、世界初の法医学専門書と認定された。最も特筆すべきは、宋慈氏が提案した「血で血縁関係を見分ける(中国語:滴血辨亲)」方法は、さらに中国で血液型に対する最初の記録である。