南宋御街一帯にある「二十三坊巷」は杭州の魂とも言える。これらの路地には杭州で最も純粋な暮らしが保存されており、宋の趣も引き継がれている。
路地を歩くと、片側には水墨画のような白い壁があり、反対側には様々な商店が立ち並んで、隅々に南宋の姿が残っているようだ。どの路地も歴史に満ちた物語で、昔の南宋を知ることができる。
茶啾弄の南は城隍牌楼巷で、北へ十五奎巷を経て呉山の麓まで。南宋の時、ここは茶鈔弄と呼ばれ、交引庫の所在地だった。交引庫とは、南宋のお金の印刷、税金などの機能を司る機関で、太府寺に所属していた。また、茶提挙司もここにあり、お茶の販売や税金などの役割を担当していた。
古代において、お茶は重要な税収源であった。宋には広範な「榷茶」が実施され、これはお茶の専売制度であり、税金制度でもあった。商人はまず朝廷が設立した「榷貨务」に現金を納め、証憑のような書類「交引」と引き換えに、そして「交引」を持って指定された場所でお茶を受け取った。当時の食塩も同様の制度が行われていた。
元に宋の制度が続き、茶塩都転運司が現れ、その後、管轄区が急速に拡大したため、またお茶の生産区に「榷茶提挙司」を設立した。この機関はお茶を栽培する農家やお茶を販売する商人を管理し、税金を徴収していた。
今の茶啾弄の周りにはいろいろな建物があり、長い柵が茶啾弄を隣の芸苑と隔てている。柵のそばにある古い井戸は「茶啾井」と呼ばれ、でこぼこした井戸の縁には歳月の跡が広がって、水は依然として澄みきっており、住民の日常的な用水需要を満たしている。茶啾弄の南はすでに近代化されて、呉山下の北の部分だけが昔のままの姿をしている。
時間はここでゆっくりと歩みを緩めたようで、平凡に見える階段、扉、木は、散らばったパズルのように杭州の記憶をつなぎ合わせる。