岳飛は、中国南宋の武将。愛国精神と軍隊を率いて勇敢に戦う勇気はずっと人々に称賛されている。
南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相の秦檜に謀殺された。享年39歳、今西湖のほとりに岳廟が建った。
岳飛は若い頃は勤勉で学びやすく、そして立派な武術を身につけた。19歳で入隊し、やがて父の死により除隊して帰郷した。1126年に金が中原に大規模侵攻し、岳飛は再び入隊し、伝奇的な生涯を始めた。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、紹興4年(1134年)には清遠軍節度使・荊湖北路襄陽府潭州制置使に任命された。靖康の変後、北宋王朝は滅亡し、南宋は南方の杭州に政権を移した。岳飛は何度も中原回復の意思を表明したが、免職された。後に何度も戦功を立て、東京留守を任された。その後数年間、岳飛は数え切れないほどの戦いに参加し、南宋のほぼ滅亡の危機に直面し、最終的に南宋の防御線を守った。彼が結成した岳家軍は規律が厳しく、勇敢に戦い、赫々たる戦功を立てた。敵も「山を揺るがすのは易しく、岳家軍を揺るがすのは難しい」と嘆くしかない。
絶えず勝利した後、岳飛は黄河を渡って中原を回復する準備をして、交渉を主張された高宗と秦檜は撤回を命じた。長年の戦果はたちまちすべて失われ、岳飛はこれに対して悲しみと怒りを極めた。しかし、朝廷に戻ると解任され牢屋に入れられた。紹興11年(1142年)12月29日、岳飛は臨安風波亭で毒殺され、息子の岳雲と部下の張憲も同時に殺害された。寧宗が即位まで、岳飛はついに名誉を回復され、鄂王に封じられた。
岳飛が最もよく知られている美談は、背には母によって彫られたとされる入れ墨の「尽忠報国」の4文字。岳飛はリーダーシップが強く、自ら126戦を指揮したが、1敗を喫しなかった。彼の文才も素晴らしく、「出師の表」「満江紅」「岳武穆遺文」などの作品を書いた。
岳廟
岳廟は岳王廟とも呼ばれ、南宋嘉定14年に建てられ、中には岳飛の英霊が眠っている。当初は「褒忠衍福禅寺」と呼ばれ、明の天順年間に「忠烈廟」と改称、岳飛が鄂王を追封したことから岳王廟と呼ばれている。現在の岳廟は清に再建されて、ここの碑の廊下には彼の手書きの作品がたくさん陳列されている。
オープン時間:07:30-17:30
住所:西湖区北山路80号
宋韻歓潭五義文化村
歓潭村は杭州市蕭山区の南に位置し、南宋の岳家軍がこの地の池を通りかかった時に休憩して整備したことから名付けられた。地元には「義倉、義学、義診、義渡、義葬」の「五義」精神がある。現在、歓潭老街は岳家軍をテーマとした親子体験と伝統工芸の体験プロジェクトが杭州南宋古村の「金の名刺」となった。
住所:杭州市蕭山区進化鎮、歓潭村